恐ろしい事に 崩れた雪崩を受け止めてから押す
一枚の写真は嘘をつかないから
嘘をつけない場に身を置いた

独り 絶海の海に漂い

逃げ場がないようです!
助かりそうにないようです!
なんて とにかく考えない

のが難しい!

怖いのだ!

黙って何でもやってみる
波で退く事は死
ひたすら前を向き
崩れた波の中へ頭から突っ込む!

水泳の教科書にものってない
全ての感覚と心のおもむく光へ向かう訳だ

やりがいって そんなものだ
生きててよかった 甲斐がある事を
生き甲斐と言う

体で知れば永久に忘れない
頭で覚えたってすぐ忘れる
優劣を決める暗記力より
体にしみ込んだ記録で生きたいぜ!

のほうがぐっとくるじゃないか!



の丈を知る旅

旅って、何かを変えようとか、そういう「言葉」じゃなくてまず行くこと。
しゃべることも旅かもしれないけど、それは自然に向こうから来るものだし。
色んなこと思うけど、見てないものをどんどん見て経験を積んでゆく。
その経験がまた100人100通りの形をそれぞれにつくるんじゃないかな。だから楽しい訳だし。
人ってなんだろう、輝き合うじゃないけど、よかったね、というそんな単純なことなんだと思いますよ。

都会という仮想空間にいても、何をしていても僕たちは地球に生きているんだ。
例えば、元々ここも海や山や川だったかもしれない。
人間が生活を安全に楽に地球の危険から遠ざけるために今があるわけだけれど、そうすると忘れてしまうことはたくさんあるよね。
で、まず僕の感覚だと一人の時間。一人で自分の心を見る。
自分っていうものがなんなのか。 例えば海岸からどのくらい泳げる泳力を持っているのかとか。自分の身の丈を知る。
それは人から教わるものではなくて、ありのままの、天然の地球から感じ取ることが一番の早道だと思う。

ノイズがたくさんある街の中で目つぶって瞑想しようなんて気に、なかなかならないじゃない。
そういう静かな所に行って心を落ち着かせて何なんだろうなあって心の目を育む時間というのをね、
若い人も大人たちももっと持つべきかなと。それが波音を聞いて座っているだけでもいいし。
実は見ているようで見てなかったもの、見えないものって実際世の中にたくさんある。
それはコンピューターや本屋でみるそういうのじゃなくて、地球にあるもの。
やっぱり身を置く、経験する、それは身に備わっていくものだから、大事だと思います。

分をチューニングする


パラオの沖でもフィジーの沖でもここでも実は同じなんだけれど、
結局、みんなおんなじ地球の空気吸って雨風に打たれてる訳ですよね。
それでも場所が変われば視覚的にもやはり受けるものが違う。
人気のないような海を探して行くと、人間の考えが及ばない世界が充満している。
本来の地球の姿っていうものがあるんだなって行って初めて分かる訳です。

たとえばフィジーに何か月もいた後に日本の都会を歩くとね、人から俺のこと見えてないんじゃないんかなってぐらい、
違う人間になってる感じがするの。自分がこの街の中を歩いている人間とは別の透明な人間のように思えてね、
周波数がまったく違うっていうか、まったく気にならなくなる。
帰って1週間くらいはしばらくそんな感覚で歩いて楽しんだりしてね。
だから、違う周波数に心と自分自身を持ってっちゃおうってのが旅だと思ってますね。

都会に何年も幽閉されてたら具合悪くなってしまうから、動物的な感覚でそろそろ行かなきゃなと
パッと渡り鳥のように行くわけなんだよね。
えー、そんなの普通の仕事や会社員じゃできないじゃないって言うけど、時間は作ろうと思えば絶対あるからさ、
距離や場所の問題じゃない。
行こうと思うときに、行こうと思う所に行った方が、少し先の未来で経験する深さが格段に純粋。
間違いなく、なんだもっと早く来ればよかったなーって笑う。

とにかく、なるべく人のいないところに行く。それも独りがいい。
なんか心地いいな、と思ったらそこに行く。歩いて通り過ぎても、何か引っかかりがあったらもう一度戻ってみる。
ちょっとと思ったら身体を動かしてみる。そんな行動の中で気づいていくことじゃないかなと思います。
行ってみないとわからないじゃない。僕もわからないから行く訳よ。
その、ワクワク感と期待と。常にみんなに変身するチャンスがあるんだよね。
やっぱり都会の周波数にはまるとスタックしちゃう。
他の皆がそうだから流れに乗ってしまうしね。

覚と脳、視覚と心

泳いで撮ってる時には、まず目で波をみる訳ですよ。遥か沖の水面の変化をひたすら読む。
やがて水面が空を隠し順番に盛り上がりながらドドドドドって崩れていく。
瞬時にやる事が山積みに迫り来る。怖いなんてもんじゃない!
やっぱり目から情報って入ってくるから、で、その情報がどこに行くかっていうと頭じゃないはずなんだよ、心。
だけど今の人は頭に入れてからまた心に戻すからこんがらがっちゃってると思うの。

僕は写真撮るときに、ファインダーを見ないのだけれど、写真って怖いぐらいその人も写る。
ドキュメンタリーであろうとするほど作ってしまう。とにかく見ないで撮るっていうのが難しいんだよね。
ただ、両目では見てなきゃいけない。でも頭に入れたらもう遅いんです。波って行ってしまうから。
だからシャッターを押す人差し指と心をつなぐっていうのか、僕の場合は信号を首から上、脳に行かさないようにする。
ハッと思ったらシャッターを押してないと波はいなくなってしまうから本当の姿は写らない。
みんな目で見て、頭に入れてからつないじゃってるんだけど、見て、うわーって思う感動とストレートな衝動のまま、
自意識とか、色んなものをなるべく排除して、純粋なものをそのままフィルムに残させてもらおうなんてスタンスなのかもしれないな。

写真学校だと構図ありきで露出がどうとか言うけれども、実は写真ってもっと自由なものだから。
別にみんなでたい焼き作ってるわけじゃないからさ、おんなじ魚並べたって面白くないじゃん。
ハッと思ったら行っちゃうような湧き上がるものがないと写真には表れてこない。
そこが写真の醍醐味でもあるし、すごく自由な部分だし、恐ろしい部分だしね。
だから不思議だ。 たしかにそのとき見てはいるけど、早すぎて見れてない部分もあるから、そこはもう感覚でしかない。

LUXUREARTHへの想い

すごく単純なこと言えば、これから本当に人間が豊かに自分として輝くために、
美しいものは美しいとか、ありがとうとか、
そういうものは多分実はみな一緒で、その根源は何かっていうとこの地球にあるんだよ。
色んな教えっていうのは地球にある。
雨、土、風。そういうもの感じて、ああ、なんか風が匂い運んだな、とか、今日は潮の香りがするな、とか、
感覚的なことも含めて地球がなければ俺たちはないわけで。みんなおんなじ海の子どもたちっていうかさ。
そんなもんだと思ってる。

そういう意味で、このLUXUREARTHって、地球の中に本当の教えがあることを言っていこうとしていると思う。
豊かさや美しさはやっぱり地球にしかない。
例えば、火星に明日行ってくるといったら行って来いってなるけど、地球をまだ全然見てないんだからもったいないよ。
海でも山でも川でも美しい世界はいっぱいあるのに。
それに海はつながってるから、別に外国じゃなくてもいいんだよ。
どこどこ産のマグロだ!なんて食べてる人いるけど海はおんなじだからさ。

政治家だって、ネクタイ外して裸でぼちゃんって海に飛び込んだらさ、「うわっ、冷てえな」とか当たり前に思う。
地球は厳しい。怖い。でも、人間を何とかしようとか、殺してやろうとかそんな風には思ってない。
純粋にありのままの手加減ない美しさで生きている、すごいところなんですよ。

やっぱり地球をみんなで極めていかないとね。
すごい単純なことだよ。怖いから、強いから手を合わせる。
本当に裸で泳いだ時に、藁をも掴む藁もなくて、「あっ、死ぬな、これ」って時に余計な事しようと思わないですよ。
本来地球の奥に行くには、死ぬ気でいく。または今の日常や自分の傲慢さや考えを捨てて行く。
禅や修験と同じですよね。

特に僕はそんな場のさらに危ない場に身を持っていくから、レスキューの知識がなければいられない。
同時に地球で助かりたい方法として忍者の呪文唱えたりセージを炊いたり、
古来地球と生身で生きてきた先人が必要だから行なった手法や祈りを取り入れて撮影してるわけです。
そういう積み重ねでね、やっぱり自分は生きてるし、ここは聖域だなって思うようになる。
人の何倍も海で裸で泳いで死ぬ目にあった人間が何かここで伝える意味は、
人って色んな階段と入口が必要だから、手を差し伸べてひとつ扉を開かせる勇気をっていうのか、
そんなことができれば嬉しいなと、おこがましいけど思ってますね。

節は地球に教わる

最後肝心なのは自分だから、一から百まで教えたらそれは何も意味がない。
やってみて「うわ、この指先に当たった水ってこんな固いんですね」と水の固さを感じてわかる。
これ教科書に載ってないから。行かなきゃ分かんないじゃない。
礼儀とか礼節とか、本当はそれも地球から教わるんだよ。地球教育。
こわいなあと思うからお辞儀するようになって、すいませんちょっとお願いしますって。
地球は生きてるし、思った以上にみんなのことを見てるよ。
礼に始まり礼に終わるっていうけれども、実はそれがこの星に生きてるということ。
一度踏み込めば学校の先生に教わらなくても自分の身体や心の中にグッと留まって残るもので、そうした味わいは生涯忘れないよね。

たとえばアロハとかもそう。「アロ」は分かち合う、「ハ」は呼吸。
やっぱり見えない波長とリズムの中の動きなんだよね。
海の波は、波というものだってみんな言うけど、実はエネルギーが水に伝わって動いた一つの形でしょ。
手もこうやって動かすと波みたいとか、そこからフラダンスが生まれて神様に捧げるなんて言うように、
やっぱり捧げる行為、捧げる時間の中に俺たちは本来いるべきだったし、それが礼節になる。
そうすると人に対しても自然とそうなると思う。
アロハだよね。心に言葉を乗せる時間というのはいま少ないから、まずは地球に対して本当に純粋に心に言葉をのせ、言葉に心をのせる。
ありがとう、とか美しいとか。そういう時間っていうのが何より大事なんじゃないかなと。
どの国も同じ。本当に。新しい何かをするってことじゃないと思う。

頭が下がるのは根源的な自然の行為。
夜暗くなって海から帰るときに、美しいものを見せてくれて本当にありがとうって。
絵具じゃない色の世界にいる訳だから、人間に描けるかって言ったら描けないでしょ。
自分ってそうか、地球として生きて、感情の水みたいのが揺れ動いてたんだな、とか再発見する。
そういう時にさ、おばちゃんが「食べなよ」ってタコくれるとか嬉しいじゃない。
まったく知らない人間に対してさ、本当にありがとうってなるでしょう。そういうことなんだよね、人間って。

とつながる海


嬉しい時や悲しい時っていうのは嘘がないでしょう。
俺、写真は泣きがなきゃいけないと昔思ってた。
ドキュメンタリーっていうのは、人の死生感がなきゃいけないんじゃないか。
だから戦場に行かないと本物は写んねえんじゃねえかってすごく考えてたの。

だけど待てよと。俺は海の人間だったし、悲しい世界ばっかりじゃないんじゃないかと。
だったらもう一度ゼロで、海と修業っていう部分で、辛くて苦しいだろう、困難だろうって場所の
ぐちゃぐちゃに混ざり合う「波」なんだと、ある日カメラと足ひれをバッグに詰めて子供の頃の自由な海に戻った。
撮り続けた2年目のある日、これだ!と思うものが写っていた。

涙や汗が海の水だって言うように、水に包まれて俺たちも生きてるしね。
うーん、やっぱり悲しい時嬉しい時って涙がどっかから自然と溢れて来るというように、なんか海とくっついてるんじゃないの。
呼ばれちゃってるというかさ。だから俺たちは海が恋しいんだよ。


山で稲妻が走り一面が雨に包まれた

熱帯の濃密な夕闇に飲み込まれないよう願い
体も冷え、体力も消耗し、戻らなくては危険な感じがした

すると 一匹のブラックチップシャークが様子を見に深みから向かってきた
安全なサメだとわかっていても
こちらから潜って彼の方に向かうと濁った暗い深みに消えて行った

サメが来たら退いてはいけない
弱みをみせずゆっくり向かう事

水面に顔を上げると、矢庭に沖からせまる巨大な一列の波が迫った
鋭く潜った瞬間、全身を重く早い波動が突き抜けた

珊瑚礁の海岸はどこからでも上がれるわけではなく
遠回りをしても元来た岩礁の切れ目まで泳がなくてはいけない

全てが人間の力を越えている

これが地球の姿であり 人の心の姿勢である
正しい道を地球と宇宙は我々に示している
加減の無い美しさで何かを伝えている




※杏橋さんは、オーストラリアのライフセービング、ブロンズメダルに付随したCPR.EARとい った救急法、アメリカのスイフトウォーターレスキュー、ダイビングのアドバンスダイバー資 格はもちろんのこと、その救急法など、数々のライフセービング資格の知識や経験のもとで撮影を行なっています。絶対に安易に真似をしないでください。

杏橋 幹彦
写真家
1969年、神奈川県茅ヶ崎生まれ。 1992年~あてもなくカメラとオーストラリア~島々の旅へ 2002年よりやがて人は海へ裸に近い姿で行くべきだと感じ、酸素ボンベなど機材を使用せず、 足ヒレのみで波の裏側で起こる波動と光をパタゴニアのサポートのもとノーファインダーで撮影してきた。 スイスの時計ブランドロンジン社に「水の世紀の冒険家」に選ばれるなど誰もが見た事のない「青い作品」は国内外で高い評価を得る。 以来の独自の体験を文章やトークショーをはじめ、ラトビア共和国、堂島リバービエンナーレ、アートフェア東京など、ファインアート展と個展で伝える。 又10年に渡り撮影された、初の写真集「Blue Forest」を発刊した。 地球環境の保護を目的にする1%フォーザプラネットメンバー http://mikihiko.com/