山の思想

「受けたもう」っちゅうのはこれはね、同じ修験道でも羽黒独特の言葉だね。
要するに何言われても、名前呼ばれても、何かこれ頼むって言われても何でももう「受けたもう」なんだね。

考えてみるとさ、修験道っちゅうのはほら、色んなものが入っているじゃないか。
神様も仏様も、陰陽道も道教も、アニミズムもみんな受けている宗教だよね。
やっぱり、修験道は一神教と違って多神教じゃないですか。
そうするとものすごく受け皿が広くなきゃいけない訳だから、色んな多神教を受けているからそれを象徴するような言葉だよね。
「受けたもう」っていうのは。

生きていると日々、いや、違うだろうっていうのがあるじゃないか。
そこで対立が起きるんだよ。でも対立の先にはあまりいいことないもんね。
だから、人間が生きていくうえでの、人間社会の中での基本的なことじゃないのかな。
「受けたもう」って。 なんでもありの、まずスタートが「受けたもう」だよね。
そこから入っていくんだから。いい言葉ですよ。羽黒山伏の。

日本っていう国は本来自然が神様であってさ、
だからまあ、山であり、川であり、海であり、大きい木であり、象徴的なのは磐倉だよね。
磐倉なんかは神のシンボル的なものとして扱われていた訳だ。だから岩倉神社とかがいまでも残っている。

そういう自然を拠り所として、そして向かい合って、神様っていうのはごく普通に日々の生活の中にいたんだよね。
自然の神様からいろんな恵みまでいただけるという、非常に分かりやすい世界だと思うんだよ。やっぱり自然の神様っていう
日本の思想って素晴らしいと思うねえ。

神様に仏様が入ってきて、その神様と仏様を中世で一緒にしていったのが修験道だから。
日本人の精神性の拠り所として修験道っていうのは、ものすごくあるんじゃないのかな。
神様と仏様両方だからね。

それが近世の江戸時代まで来て、明治政府が日本を早く近代国家にするために、
これはやっぱり天皇や国を神様にしなきゃいけないと、統率しようとした訳だ。
で、神様から仏様を離しちゃった。
神仏分離令を明治元年に出したのだけれども、ところがやっぱり日本人の精神性を集合化したのが修験道な訳だから、
明治政府は、ああ、これは修験道も潰さない限り、神仏分離はならないなということで、
改めて明治5年に修験道廃止令まで出して日本の修験道を壊しちゃった。
日本の本当の精神性、日本人の本質的に持っていた文化性っていうものをそこで壊しちゃったんだな。

十通りの答え


それから140年になるねえ。
優しさとか清らかさが失われた140年ですよ。だから世の中今こうじゃない。
神様は清らかさでしょ。仏様は慈しみだから優しさでしょ。
清らかさと優しさが一緒になって学んできてたのが、これが離されて別のものになっちゃった。
それが現代の日本人の精神性に変えちゃったってことだと常々思っているけどね。

これはみんな心に響いてるんじゃない? 特に3.11以降は。
ところが、断然として国家は今まで通りのことをやろうとしている。
この総括を全然してないよね。精神性だけじゃなくエネルギー問題にしてもね。
また同じ事の繰り返しですよ。

だからやっぱり、我々はあえて山伏なりのね、 神様と人をつないだり、自然と人をつないだり、
そうすると自然と向き合ってさ、生き方っていうかな、そういうのをつないできたのが、まず山伏じゃない。
そういう意味での山伏がいま、どんどん増えていくことが必要なんじゃないのかな。世直しとして。

私が東京出ていって表参道で話すよというと、2~30人くらい、すっと集まるじゃないですか。
みんな真剣に聞いてるもんね。
あれはお江戸に出て行く羽黒山伏の辻説法だと思っているけど、そういうことをやっぱり我々はどんどんやっていかなければいけない。
自然と関わっていない人たちだから、自然と関わるのが少ない人たちだからね。

今の若い子たちはみんなお利口さんです。
答えを出すことに慣れていて、非常にそういうことが巧み。でもそれがいわゆる、自分自身を狭くしてる、ってことなんですよ。
だから今の子たちは、答え出すのは上手だけども非常に物足りない。答えを一つ出そうとして四苦八苦して、自分を狭めている。
しかし、お利口さんっちゅうのは、あるときガクッと来るんだよ。答えがないってことが、どういうことなのかが分からない。
ちっちゃい時から常にテストで答えを出さなきゃマルもらえないじゃないか。
テストで点数多く取るっていう、そういう環境でそういう育てられ方してるから、
常にひとつの正しい答えを出さなきゃいけないっていう。
1+1=2だって。

ついこの間は東京大学出たヤツが説法に来てね、やっぱり頭いいよ、みんな。
だけどそれだけではいけないんだ、という人たちが集まって来てるね。
分かってきてるんじゃないのかな、頭でっかちではいけない、っていうようなことがね。
当然そうだよ。答えを出すことを小さいときから訓練までさせられてるからね。答えは身体で出せばいいんだ。

自分の気になることを行動して、そこで自分の答えじゃないですか。
でも、そこの所が訓練されてないんだ今。頭で答えを出すのに知識は持ってるよ。
知識は持ってるから、答えは出るんだけども、ところがその答えが世の中で通じる?
通じないから、今こんな世の中になってるんじゃない。世の中には頭の良い人がいっぱいいると思うよ。
でも、こんなに頭の良い人がいっぱいいて、なんで世の中良くならないの? 
今一番大事なのはそういうことじゃないかな。

身体で考える


やっぱり今、本当にみんながさ、幸せで暮らしやすい、そういう世の中っちゅうのをみんな求めてるじゃないですか。
いくら頭の良い人が知識を利用して頭で考えたって、結局は答えを一つに絞ろうとするから狭くなるのであって。
ところが、気になるっていうことは体から出てくるものだよね。
頭のいい人はどんどん知識が入ってくるけども、ところがそれが「智慧」に変わらないんだよね。

それは即、身体で考えるというものじゃないですか。
身体で考える魂というものと、頭に入ってる知識が、ひとつに上手く交わっていって答えが出た時に最高の答えになるのであって。
知識は十人みんなおんなじ。
ところが気になることっていうのはみんな違うから、そうすると十色の答えがあるわけだよ。
その十の答えの中で、それじゃどれがいいのかってことで、自分自身は自分の気になることをやればそれが自分の答えなんだ。
他の人の答えを気にする必要はないんだよ。

それで間違えば間違ったで、また気になることがあった時に、これはものすごく財産じゃないか。
それが糧になって気になることっていうのは、また変わってくるんじゃないの。
そういう積み上げをしていくこと。
だから答えはいくつでもあるんじゃないの?
それが修験道の「受けたもう」につながるんじゃないかな。

身体で考えるから、だから山伏修行なんかはものすごく快適なんだろうねえ。
だってその間は、自分自身それで生きてるんだもんね
だから私はどこへ行っても、まず人と会うと大体この人どういう人かってわかっちゃう。
それをわからないように接するっていうかね、羽黒修行はそういう「野生性」を求めている。

女性と野生性


本来男性と女性と見た場合にさ、男っていうのは野生性が弱いんだよ。
具体的にいうと、女の人がなんで野生性強いんだろうと思ったのが
私の所の大聖坊にも3日間の修行に都会から若い子たちが修業に来る。
ここの山では秋の峰入りとか、巫女修行とか女の人も入れる修業を色々やって来てる。
それで、ここに修行に来た女の子たちが、修業が終わるとみんな生き生きして帰っていくのね。

修行している時には辛そうだったのに、
なんで女の子たちはこんなに生き生きして帰って行くんだろうかなあって、ずっと気になっていたんだよ。
さっきも言った通り、山の修行なんちゅうのは朝4時に起きて、
川に入って禊したり、合山行くのに山を走ったり、不動尊に行って滝に入ったり、野生性そのものを行動する訳ですよ。

そして、それを言うときに大事なのが暦。
山伏は、清らかな「聖(ひじり)」聖というのは、日を知る、暦を知る、火を知る。
そういう役割の人が山伏なもんだから、やっぱり私も暦っていうのはものすごく気になる訳です。
そうすると、暦を考えた時に、近世までは旧暦、月の満ち欠けとの関わりで、
一年間のサイクルと暮らしすべてが月の満ち欠けの中でずっと動いていたんだよね。
月の満ち欠けっていうのは、しっかり女の人と通じてるわけだから、
そうすると1年間自然の中で女の人たちっていうのは、
具体的に自然のエネルギーとか野生性的なものをそこで通じ合っているということだから、
そのままの状態で野生性が保たれていたと思うんだよ。

ところが、明治何年かから太陽暦になったじゃない。
太陽暦になってから、そこのところが断ち切れちゃったんだよね。
それから140年経って明治以降の女の人たちは、そのサイクルに身体が反応しなくなっちゃったんだよね。
そうしている中で、山伏修行は徹底して野生性なことばっかりやらせる。
修行する女性たちは、頭でそういうこと全然考えてないから、身体にそれが自然と蘇ってくるんだよな。
それでこの生き生き感なんだなって実感なのよ。

今まで女の人たちは修行に入れなかったって言い方されてるけれども、入る必要が無かったってことなんじゃないのかな。
ところが、今みんなそういうこと忘れてるから、女の人をどんどん修行に入れて、
その本来持ってる本質的な野性性を取り戻すことだと思う訳だよ。
今は上っ張りの強さの女性が多い。
うわべだけじゃなくて本質的な強さっちゅうものを、女性はそれを取り戻すことが大事なんじゃないかな。

野生を失う男性


だから男どもはさ、
そういう野生性が無いから、昔はその野生性を身に着けるために男性だけが山に入っていったわけさ。
逆に男性は身に着けに行くの。女性は取り戻しに行くの。そういうことが山伏修行だと思うね。
今は本当に色んな意味でそういうことが求められる時代だと思うよ。

その羽黒山伏がお江戸に行って辻説法みたいな話するときにそういう所に来るのは、半分以上が女性だもんね。
お江戸の女の人たちが、そういうものを理屈抜きに自然と求めてるんだよ。
野生性がそれを何か動かしてますよ。

私はね、頭で考えてない、全然。みんなカラダで考えてる。
色んなことがねえ、なんか身体で感じていくんだよね。
だから気になることが、それが霊性だなんちゅうのも、いまは誰もそんな言い方しないじゃない。
しかし、自分の気になる声っちゅうのは誰にでもあるじゃないか。
ところが今、霊性とか魂だとかいうと、あんまり触れたくない、関わりたくない世界だっていう風な捉え方で、
そこに関わっているのも変な人たちみたいになっていて、それを変に利用している人も実際はいるけれども、
そうじゃなくて、なんかこう素直にそこを大事にしてくっちゅうことが必要なんじゃないかなあ。
気になるとか、胸騒ぎがするとかね。大事だよ、そういうこと。誰にでもあることだもの。

だから山伏は、修業は自然の中でさせていく。ただそれをつないでいくだけでさ。
修行の時は一切しゃべらないですよ。下手に修業の時に喋っちゃったらダメなんだ。
身体で理解してくわけだから。

四季の修行


1年間の修行というのは、基本的には春夏秋冬の行があったのね。
春の行っていうのは「穀母(こくぼ)」を増やす行だね。
夏の行っちゅうのは、稲の花が咲く前にしっかりと花水がかかるように、そういう事に関わる神事も入ってくるね。
秋の峰っていうのは、収穫前の稲についた虫を焼くという行為。
冬の峰っていうのはこの穀霊をつける行。

簡単に言うと、1年の修行はこういう春夏秋冬の農業との流れの中でしっかり合ってる。
基本的にはほら、やっぱり日本人の場合は食を求める移動者だから。
昔は食べ物っていえば、山にあるか、川にあるか、海にあるかだったでしょ。
定住してない頃はまず、食べ物を求めて移動してた訳だしね。

稲もみに稲魂(いなだま)がついたものを「穀母」にしてね、それを修行で増やしていく。
一粒の稲もみに稲魂をつけて、それを「穀母」にして、もっとたくさんの稲魂が入った。
一俵のたわらに、それを「穀母」として入れて、一俵全ての稲もみを稲魂にする。

そして今度はそれを穀母にして、農家に配って稲もみに混ぜて、それで農家の人たちが自らお祈りをして、
そのお祈りをして稲魂のついたものを庄内の人たちが、自分の家の田んぼに植えていく訳だ。
高野聖(こうやひじり)っていう箱の中に五穀を入れてね、
その中に稲魂、稲もみも入れて、100日間朝夕禊をして、ただ一心にお祈りするわけですよ。
これが穀母になって、また次の春の峰という修業で増やして、それを春先に庄内の農家に一粒ずつ持って行って配る。
農家は初穂料としてお山に返してくれるわけです。

庄内を山から眺めた時のあの空間の広がり。穀物に穀霊をつける作業っちゅうのは、
この羽黒山伏たちが冬の峰って修行で、100日間のこもり行をして里に下ろしてくる。
だから庄内に出てくる米は、みんな魂の味なんですよ。
そして、それをやってるのが羽黒山伏。
上手く循環して回ってますよね。

これからの哲学と自然


「哲学」っていうのは生き方の問題だからね。
子供たちに向けた哲学っちゅうのかなあ…

実は、今まで子供たちに向けた感覚というのは弱かったんだけど、
教育関係の、とある大きな塾の会長さんが訪ねてきたときに、「9歳の壁」って言ったんだよ。
子供たちは9歳まではね、誰とでも遊べるんだって。 ところが9歳になると、なんかそれが変わっちゃうんだって。
それを9歳の壁って言うんだね。初めて聞いてさ、9歳の壁っていうのは3年生か4年生だよな。
学校教育ってそういうこと分かってないんじゃないかなって思ったのは、
先生の担任決める時にさ、まあベテランとか慣れた先生が5年6年、1年2年だよね。
逆に新米の先生が3年4年あたりじゃない。そこがものすごく大事なような気がしてさ。
ああ、なるほどなあと。で、その9歳の子たちに山伏修行みたいな事をやらせようって事になって、
東京の大きな塾でそれを子どもたちにやらせる前に、まずその先生やら大人が10人くらい修行して実際にやってみた上で
どういうやり方をしたらいいかっちゅうのを、彼らなりに考えるっていうのね。

これをね、なんか地域でもやりたいなあと思ってさ。
ここの庄内の子たちをね、3.4年生の親子で一緒に一日山伏修行みたいなのをやらせて、
そしてなんちゅうかなあ、やっぱりとにかく、まずそこに「身を置く」ということだね。
でも、そこに身を置くといっても、それは生半可な問題じゃない。
我々は動物だから、動いて命の源泉の食べ物を求めるじゃないか。
ところが、そこに身を置いただけで食を求めているのは植物じゃないか。
植物っていうのは身を置いただけで、そのエネルギーを空間と上からと下から取れているじゃないか。
身を置くっていうのは、それぐらいの事なんだよ。
山伏修行なんていうのは、まさしくそれに近い技じゃないかな、って。
自然に身を置くということがね。

そういう本来の「身を置く」ということを、子どもたちにしっかり9歳の壁の頃にやらせること。
ただその辺の山で遊ばせたり、なんだりしてるだけじゃじゃなくてさ、
本質的な自然との関わりを持ちながら、自然と一体性を持ってそこに身を置く。
そういうものを今年8月に子どもたちにはやりますよ、地元で。

新しい戻り方


気になったことをやれよ。それでいいんだ。
気になる事をやれば言霊が出てくるんだよ。
頭でやっても、頭に入っているような言葉しか出てこないよ。
だからみんな同じようなこと言うじゃない。ねえ。
下手に頭が邪魔してるだけ。気になった事をやって、後で頭で整理すればいいだけ。
そうするとまた違った気になり方ができてくるから、それが活性化して素晴らしいものになるだろ。

ところが、だからって行動が先ってよく言うけれども、その行動を起こす根源が間違っちゃうんだ。
行動すりゃ何でもいいからってやってる人いるけれども、そういう事じゃないんだよ私に言わせると。
その動く声がどこから出るかっちゅうのが大事。自分自身が素直に、気になることの通りに生きなさいって。
一日の中でも、一日の中でないことでも、気になることっていっぱいあるじゃない。
例えば山歩いてて「ここ走った方がいいかな」って走っちゃえばいいんだよ。
休んだ方がいいかなって休めばいいんだよ。常にそういうことじゃないか。
頭で考えるから、気になることってどういうこと?って聞くんだよ。まだ頭で考えてるもの。

気になったことをやってると、ものすごく押しになる訳だよ。
頭で考える癖ついてるから、床に入って考えるんだ。
床に入った時はそこで寝りゃいいのに、みんな床に入った時に寝れないって当たり前で。
考えるのなんて、起きてる時にそうなってることが考えることなんだよ。
私はどこで寝ようが2、3分でグーッとなっちゃう。
かかあは「あんたは幸せな人だね」ってたまげるけど、だってこれが人間の姿じゃないか。

しかし、なかなかね、それは取れないもんだ。
だから常々ちっちゃなことでも気になったことをやったりしてればさ、そうなっていくよ。
ああ、今行きゃ大丈夫だなって時に行きゃ大丈夫。
頭で考えて、ちょっと待てよってなると失敗する。
自分がふっとこう気になって、あっ、今行った方がいいかなって時に行きゃ大丈夫だな。
ポツンと定めて行きゃいいのさ。 ダメだったらどうしようって、考えるからダメになっちゃうんだよ。
よし、俺行くぞって行けばそこでガッチリ合うんだよ。
あの人ダメだったら誰にしよう、この人ダメだったら誰にしようって行ったら、絶対、気になり方が違うじゃないか。

頭ちゅうのはたしかに科学的な、しかし、ただ知識的なことだよ。
生き方の上では、頭っていうのはあんまり影響無い。トラブルの時に頭で考えて解決できるかなあ。
できないよ、多分。
なんかそこにふっとわだかまりを消すような言霊がぽいっと出ただけでさ、ああ、そうかあ〜ってなるんだから。
新たな戻り方って言うかな、「本来のもの」に「新たな戻り方」っちゅうものを創り上げて行くことが、
今我々には必要なんじゃないのかな。

星野文紘
羽黒山伏
1946年山形県出羽三山羽黒山宿坊「大聖坊」の三男として生まれる。 1971年東洋大学文学部を卒業後、「大聖坊」十三代目を継承し、「秋の峰」に初入峰、山伏名「尚文」拝命する。 2007年「冬の峰百日行」の松聖を務め、2008年より「松例祭」所司前を務める。 2000年より三日間の大聖坊山伏修行も実施。また各地で修験道の講演をし「こころ」「いのち」「健康」「農業」「芸能」の重要性を訴える。 現職:出羽三山神社責任役員理事、出羽三山祝部総代、多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員、NPO法人公益のふるさと創り鶴岡理事、明治大学野生の科学研究所研究員など。